号外寄稿/「3」尽くしのお別れ会/「ミスター」はなくとも「長嶋茂雄賞」を残す/三山秀昭・元巨人軍代表

号外寄稿(12月1日 23:00)

2025年12月号 DEEP
by 三山秀昭 (ジャーナリスト)

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祭壇の遺影にお別れの言葉を述べる王貞治氏(11月21日東京ドーム、DRAMATIC BASEBALL録画より)

2025年、多くの著名人が鬼籍に入った。

長嶋茂雄さん(6月3日、89歳で死去)もその一人だ。「ミスター」だけで通じる「国民的英雄」だった。「アンチ巨人だが長嶋さんだけは別」というファンが多かった。

その死を新聞は号外を発行、一面で報じ、特集、コラム、評伝などで回顧し、テレビは秘蔵映像を流し続けた。ニューヨークタイムズまでが戦後日本と重ね合わせて論じた。

11月に「お別れ会」が開かれ、日本野球機構(NPB)は「長嶋茂雄賞」の創設を発表した。選手名を冠に掲げる賞は終戦直後の1947年に制定された「沢村賞」以来のことだ。

3万3333本の花で飾られた祭壇

「89、役者魂。光をもらいました」と、思いの丈をぶつけた北大路欣也氏

「ミスター」の「お別れ会」は東京ドームで開催され、3万2400人が参列した。永久欠番の「3」に因み「3」尽くしだった。

祭壇は3万3333本の花で飾られ、「FOREVER」(永久に)の真ん中の「E」が逆転し「3」に代わっていた。誰もが「永久に不滅です」という選手引退時のあの名文句に想いを馳せた。

弔辞も3人。「ON」として共に一時代を築いた王貞治さんは「(あなは)昭和33年に入団、ファンの期待に応えられた」と切り出し、「長嶋茂雄さんは永久に不滅です」と締めくくった。

この日と同じ11月21日(1992年)のドラフトの抽選で長嶋監督が引き当てた松井秀喜さんは「監督復帰時の背番号は33番でしたね。あの日からちょうど33年です。偶然さえ必然の運命かと感じます」と回顧、「心の中の長嶋茂雄さんと話しながら、私なりの道を進みます」と近未来?を誓った。

俳優・北大路欣也さんは、今年の長嶋さんの誕生日(2月20日)にもらった手紙を読み上げた。「小生、誕生して89年目、野球(89)年です」という長嶋さんらしい洒落を紹介、「89、役者魂。光をもらいました」と「役(89)者」という洒落でお返しをした。このため「お別れ会」の場でありながら、異例の拍手が何回も沸き起こり、ドーム全体に広がった。

デビュー時の「3番サード長嶋、背番号3」。現代短歌におけるS音続き(水のせせらぎ)のようなアナウンスは、昭和のファンには今も耳に残る響きだ。

巨人軍を励ます経済人の会の名称も「燦燦(さんさん)会」。

私は長嶋さんの二度目の監督過程で読売新聞の渡邊恒雄社長(巨人軍オーナー就任前)の秘書部長として会の名前を提案、採用された。

長嶋さんがアテネ五輪監督を前に彼の悩みを聞き、病魔に倒れた際は巨人軍代表として表裏に関わった(FACTA2025年7月号)。それだけに「お別れ会」は私には「感慨」を超越して「人生」の合わせ鏡のひと時となった。

早くも「最初の受賞者」予想が話題に

3万2400人の拍手が何回も沸き起こった東京ドーム

NPBは11月10日に「長嶋茂雄賞」の制定を発表した。

「長きにわたって多くのファンに愛され、感動を与え、プロ野球の発展に多大な貢献をされた故・長嶋茂雄氏の功績を称える」という。

日本のプロ野球選手で2026年以降に公式戦とポストシーズンで「走攻守に顕著な活躍をし、グランドでのプレーでファンを魅了した野手」が対象だ。

何よりもファンを大事にした長嶋さんに相応しい賞だ。アメリカメジャーではサイ・ヤング賞(投手)やハンク・アーロン賞(打者)など選手名を冠した賞はいくつかある。

日本では「プロ野球の父」とされる正力松太郎・読売新聞社主に因む「正力賞」(1977年制定)があるが、近年は日本シリーズの優勝監督への授与が続いている。

また、戦前に活躍、戦死した沢村栄治投手の名を冠した「沢村賞」は先発、完投型の投手が対象。当初は読売新聞社が制定、89年からはNPBによる表彰へと変更されている。

「長嶋茂雄賞」は「沢村賞」から80年近くが経過しての久々の賞創設だ。

早くもファンの間で「最初の受賞者」の予想が話題になっている。「ミスター」は亡くなったが、「長嶋茂雄賞」を通じてファンの心で生き続ける。

著者プロフィール
三山秀昭

三山秀昭 (みやま ひであき)

ジャーナリスト

元巨人軍代表。広島テレビ社長、会長を経て顧問、広島大学特別招聘教授。

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